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あなたの知らないソウルがここに。みずみずしい半自伝的小説。

戒厳

 エッセイスト、批評家、詩人として多彩な著作活動を続けてきた四方田犬彦さんの新刊が出た。本書『戒厳』(講談社)である。東京大学大学院修士課程の後、韓国・ソウルの大学に日本語教師として1年間赴任した体験をもとにした半自伝的小説だ。軍事独裁政権下のソウルでの日々がみずみずしい筆致で描かれている。韓流しか知らない世代にとって、未知の韓国がそこにある。

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 小説は大学の卒論を提出したばかりの主人公、瀬能がゼミの仲間と渋谷で祝杯を挙げているところから始まる。1970年代後半のことだ。韓国からの留学生が、「ところで皆さん、韓国に行ったことはありますか」と一言発したのがきっかけだった。焼肉食べ放題とか、ただで韓国に行く方法があるとか、日本語教師を募集しているという話が出たが、酔った瀬能はまったく自分の発言を覚えていなかった。

 数日後、韓国から書類が届き、驚いた。大学の客員教授への招聘状だった。「嵌められてしまった」と思ったが、考えようによっては面白い冒険である、と心を決めた。準備を始めたが、ヴィザがなかなか出ない。ひょっとして、共産主義に縁のある人物ではと疑われ、時間がかかっているのではないかと疑心暗鬼になった。ぎりぎりでなんとか出発に間に合うのだが、当時の世相が出ている。

 軍事独裁政権下の韓国に行くのは、ある覚悟が求められた。妓生観光を目的にした団体客を別とすれば、個人で行く人は珍しかった。1973年には大統領候補だった金大中が、白昼堂々、KCIA(韓国中央情報部)の手で東京から拉致され、海上で危うく殺害されるところだった。朴正煕大統領による民主化運動に対する弾圧は、日本でも恐れられた。

 まだ北朝鮮による日本人拉致事件が知られる前で、左翼を中心に北朝鮮礼賛の声が強い時代だった。

 主人公と仲のいい女子学生も「街を歩いていて日本人だってバレちゃったら大変なことになるのじゃない?」「でもすごく貧しいんでしょ。泥棒とか危険じゃない?」と言い出すような韓国への偏見があったのだ。

 韓国に着いた主人公は、ハングルの発音原理を頭に詰め込んだだけだったが、さっそく講義を受け持つことになった。学生たちは一様に真面目で、私語をする者はいなかった。彼らはほとんど同世代の日本人に強い興味を抱いた。彼らの大半にとって、最初に口を利いた日本人だったからである。講義の後は必ず何人かが話しかけてきた。

 ユニークな学生が多数登場する。父親が秘蔵していた川上宗薫の小説を読み、女性器の特殊な呼称について質問してきた学生がいた。歌舞伎に関心があり、いつか日本で本場の舞台を見るのが夢だと語った。

「日本語学科」ではなかった

 日本語専攻なのに、学科の名称が「日本語学科」ではなく、「外国語学科」というのも日韓の特殊な歴史を反映していた。36年にわたる植民地支配を行った日本に対して、「たとえその文化と芸術に強い関心を抱いたとしても、それを公言することには、感情的に差しさわりがある」のだ。

 一つだけ、言い逃れの方法があったという。日本語を専攻し教員資格を得ると、中学高校で日本語教師の職を得ることが可能になる。そのため、クラスの大半が女子学生だった。

 兵役を終え、3年生に復学してきた2人の男子学生との交友が、一つのヤマ場になっている。2人はいつも迷彩服を着ており、除隊後も着る服が他にないから着ていると言った。

 全羅南道の光州出身の許憲は、同郷の政治家である金大中への深い敬愛を隠そうとしなかった。ある時、3人でディスコに行った後、居酒屋へ。出ると、12時の夜間通行禁止まであと10分。タクシーに乗ったが、制限時間を超えたため、警察署へ到着。朝まで署内に保護された。この後、さらに親しくなり、通行禁止の時間が迫ると、路地裏の旅人宿に入り、夜明けまでビールを飲んで過ごすようになった。

 許憲の出身地の光州への旅行がハイライトだ。2人は大きなリュックを背負い、中にはテントと自炊道具一式が入っていた。バスで移動し、山中でキャンプした。「二人の学生の身体が軍隊で徹底的に鍛えられていることを思い知らされた」。

 光州に着くと、許憲の母校、光州第一高校に連れていかれた。1929年に三・一運動以来、最大規模の抗日運動が起きた学校だった。「歴史の先頭を切るのは、つねに知識人である学生なのです」という言葉に、韓国と日本の大学生の違いを痛感させられた。

 新学期が始まったある日、瀬能はKCIAへの同行を求められる。尋問されるのかと身構えたが、新人採用のための日本語の会話能力試験の面接官をしてもらいたいという依頼だった。教え子の1人も来ていたが、採用されなかった。

 ソウルの下宿先の主人は、戦前釜山で日本語による教育を受けた世代で、「ホトトギス」に俳句の投稿をしていた。還暦の祝宴の席のため、瀬能は「ホトトギス」の投稿欄の複写を日本から取り寄せ、朗読した。日本の「影」がそこかしこに残っていた。

 物語はタイトルの「戒厳」をめぐる一日に近づき、クライマックスを迎える。朴大統領が部下に射殺されるという大事件が起きて、戒厳令が敷かれたのだ。

 そして帰国。右派からの歓待と左派からの非難が待っていたが、「わたしにはさしたる関心事ではなかった」。「わたしの目の前には韓国が圧倒的に存在していた」からだ。

 韓国で日本のプレゼンスがまだ大きかった時代の物語である。韓国が経済成長し、文化輸出大国となった今読むと、隔世の感がするだろう。

 主人公のソウル探索は映画館探索でもあった、と書いている。韓国の映画人との出会いも登場する。その後、映画を論じる四方田さんの出発点がここにあったのだ。



 


  • 書名 戒厳
  • 監修・編集・著者名四方田犬彦 著
  • 出版社名講談社
  • 出版年月日2022年1月25日
  • 定価2200円(税込)
  • 判型・ページ数四六判・326ページ
  • ISBN9784065266557

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